3. 近代の宗教研究 (2):宗教を社会的なものとみる視点
資料確定:2025-10-13 19:29
授業内容
目次
3.1. デュルケーム 社会的な〈もの〉として宗教・道徳を考えること
3.1.1. デュルケームがドイツの研究状況から学んだこと
3.1.2. 分業と社会的結合
3.1.3. 宗教と社会的連帯
3.1.4. 社会を〈もの〉としてみる
3.1.5. 自律的個人の宗教史
3.1.6. 社会的事実としての宗教と自殺
3.1.7. 集合表象としての宗教
3.2. ウェーバー 脱呪術化としての宗教史
3.2.1. ウェーバーの考える社会科学方法論
3.2.2. 資本主義と宗教:ウェーバーの問題設定
3.2.3. 『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』
3.2.4. 宗教体系論:『経済と社会』
3.2.5. 呪術からの解放
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3.1. デュルケーム 社会的な〈もの〉として宗教・道徳を考えること
エミール・デュルケーム Durkheim, Émile(1858-1917)
宮島喬「デュルケーム」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』、コトバンク)
フランスの社会学者。
4月15日東フランス、ロレーヌ地方のエピナルに生まれる。
1882年エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)を卒業。
ボルドー大学、ついでパリ大学の教授を務めた。
1917年11月15日パリで死去した。
3.1.1. デュルケームがドイツの研究状況から学んだこと
普仏戦争(1870~71)の敗北→奨学金制度→ドイツへの留学(1885-86)→ヴントの心理学に出会う。
ヴィルヘルム・ヴント Wilhelm Max Wundt (1832-1920)
「意識は、直接把握されることはできず、観察によって間接的に研究できるだけである。」
心理学は、意識を個人に限定せず民族心理学にまで拡張しようとする場合、そうした研究の適切な手段である。」(『宗教史の発見』p.216)
同時代におけるドイツ経済学における国民経済の把握(『宗教史の発見』p.217)
経済行為は、実際にはたいていの場合行為者には意識されていない道徳的拘束の影響下にある。
この道徳は歴史的に変容してきた。
より大きな社会的連関への個人の統合は、社会的行為を規制する道徳を介して遂行される。
このような道徳的規則は、集合的強制の圧力のもとで生じ、行為者の直接的な意識を離れる。
したがって、社会的行為は私的な意図や個人的な動機によっては説明されえない。
3.1.2. 分業と社会的結合
『社会分業論』、1893年
出発点たる問い:
「個人はますます自律的になっているのに、なぜ社会に対してますます依存的になるのだろうか。」(『宗教史の発見』p.219)
「どのようにすれば個人は個人的であると同時に連帯的でありうるのだろうか。」(同)
分業のメカニズム
分業は近代社会の発明。
進歩した分業のない社会では、個人の社会的役割は伝統と慣習によって固定されていた。
それに対する違反は神々に対する冒涜とみなされ、それに応じて厳しく罰せられた。
分業は人口増加と通信・運輸の強化という状況のもとで進行する。
経済活動が専門化していくとともに、それに対する反応として競争が増加していく。
→個人の社会的結合は、次第に平等ではなく、活動の差異性に基づくようになった。
機械的連帯/有機的連帯
「機械的連帯/有機的連帯」(田原音和執筆、『新社会学辞典』有斐閣)
機械的連帯:相互に類似した諸個人が無機物の分子のように没個性的に結合した社会
有機的連帯:異質の機能を担った個性的な諸個人が分業に基づく特定の関係で結ばれる組織的社会
機械的連帯
典型:未開社会のホルド(バンド)[採集狩猟社会における、社会的分業の未発達な最もプリミティブな社会組織]
集合意識が個人意識に優越し、それを示すものとして抑圧的法律が支配的である。
有機的連帯
典型:近代社会
集合意識が衰弱して個人意識が優越する。
抑圧的法律に代わって復原的法律が優勢である。
抑圧的法律/復原的法律(田原音和「抑圧的法律/復原的法律」『新社会学辞典』)
抑圧的法律:刑法のような懲罰的・抑圧的制裁を特徴とする。
復原的法律:民法などのように、個人の自律と複数個人の協同の保障や権利の原状を回復するような制裁を特徴とする。
デュルケームの想定した社会変動(田原前掲「機械的連帯/有機的連帯」)
機械的連帯から個別的機能が分化して広汎な分業を生じ、やがて有機的連帯に移行する。
有機的連帯が優越するに従って集合意識と個人意識の隔たりが大きくなり、社会と個人の乖離が生じてアノミーを生む。
近代における新しい集合意識の再建を展望した。
アノミー:「社会の分化した諸機能がうまく統合されず、対立や葛藤を生じている状態」(宮島喬「アノミー」『新社会学辞典』)。
「…学位論文でもある最初の著書『社会分業論』(18931年)においては、有名な機械的連帯と有機的連帯という対概念を分析枠組みとして用い、分業の未発達な社会では人々の類似性・没個性性にもとづく連帯である機械的連帯が支配的であるのに対し、分業の発達とともに人々の差異や個性にもとづく連帯である有機的連帯が優越してくるという独自の社会変動論を展開することによって、分業が高度に発達した近代産業社会にも確固たる道徳的支柱が存在していることを明らかにしようとした。これによって彼は、〈あらゆる社会は道徳的社会である〉という、彼が生涯にわたって貫くことになる社会理論上の基本的スタンスを確立した。…」(望月哲也「デュルケム」井上順孝編『現代宗教事典』弘文堂、2005年)
分業社会では、人間はいかに機能的には互いに依存し合っているとしても互いに疎遠に。
3.1.3. 宗教と社会的連帯
フランスにおける宗教と社会をむすびつける「伝統」
ジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau(1712-78):社会は市民的宗教を必要とする。
ド・クーランジュ Numa Denis Fustel de Coulanges(1830-89):古代において宗教は社会的結合の原動力。
デュルケームのとらえ方
宗教は社会的規範の別名にすぎない。
分業が増加するとともに個人が自律的に行動する領域が増大する。
すべての人々にとって規範的であって、共同体がそれへの侵犯に対して情動的に罰をもって対応するような一連の伝統は、ますます小さくなっていく。
宗教は、法の領域からは後退する。
後退は個人の自己決定権のところでとどまる。
政治的・経済的・認知的な領域と機能は、すこしずつ宗教的な領域から解放されてきた。
宗教の領域は小さくなり、個人はますます外から操作されることが少なくなる。
分業社会の、最後の共通の持続的な道徳的基盤を形成するのは、集合性のこの残りの部分である。
「他のすべての確信や実践がますます宗教的な特徴をなくしていくに従って、個人が一種の宗教の対象となる。」
3.1.4. 社会を〈もの〉としてみる
『社会学的方法の基準』、1895年
「社会的諸事実は〈もの〉のようにとりあつかわれなければならない」…その真意
社会的事実は物のように取り扱われねばならない、という命題、われわれの方法のまさに根底をなすこの命題は、最も多くの反論を呼び起こしたものの一つである。われわれが社会的世界の実在を外的世界の実在と同等に扱ったことに対して、人々はこれを逆説的な、けしからぬこととみなした。だが、それはこの同一視の意味と範囲を奇妙にも誤解したものである。 同一視の目的は、存在の高等形態を下等形態に貶めることなどではない。逆に、それは万人が後者に認めているのと少なくとも同じ程度の実在性を前者に対しても要求することにある。実際、われわれは社会的事実が物質的な物であるとは言っていない。そうではなく、いかに異なる様式をとっているにせよ、それは物質的な物と同じ資格における物であると言っているのだ。
では、実際のところ、物とは何か。外面から認識されるものと内面から認識されるものが対立するように、物と観念は対立する。 物とは、知性が自然には洞察しえないような認識対象すべてであり、単なる心の中での分析過程によっては適切な概念を作り上げることのできないものすべてであり、さらには精神が自らの内から脱し、観察と実験を通じて、その最も外面的で最も直接的に接近しやすい性質から、最も根底的で最も目につきづらい性質へと徐々に進んでいく、という条件の下でしか理解に達しえないものすべてである。したがって、ある部類の事実を物のように取り扱うこととは、実在のカテゴリーのあれやこれやに事実を分類することではない。それは、事実に対してある種の精神的態度を遵守することなのだ。つまり、研究する前にはその事実が何であるかがまったく知られていないこと、また、その事実を特徴づける属性は、それが依拠している未知の原因と同様、細心の注意を払った内省(introspection)をもってしても見出すことはできないこと、これらのことを原則としつつ事実の研究に取りかかるということなのである。
エミール・デュルケーム『社会学的方法の規準』菊谷和宏訳、講談社学術文庫、2018年、pp.25-26
3.1.5. 自律的個人の宗教史
個人主義の擁護
「人格に対する攻撃を容認できるような国家的理由は存在しない」。
「個人主義は、無政府主義を意味しないだけでなく、国家の道徳的統一性を確保できるような唯一の信念体系を表している。」
「人間崇拝は、至高の教理としての理性の自律を知るとともに、至高の儀礼として自由な吟味を知っている」。
道徳とは集団の事柄であって、個人の事柄ではない。
3.1.6. 社会的事実としての宗教と自殺
『自殺論』、1897年
(この項、奥井智之『社会学[第2版]』も参照した)
三種の自殺
集団本位的自殺:集団に行為の基準をおく
自己本位的自殺:自己に行為の基準をおく
アノミー的自殺:
1. 集団本位的自殺
「…すなわち、一方[=自己本位的自殺]は一部分あるいは全体的に解体にひんした社会が、個人をそこから逸脱するにまかせているために起こる。他方[=集団本位的自殺]は、社会が個人をあまりにも強くその従属下においているところから起こる。自我がただ自分自身のみの生をいとなみ、自己以外のなにものにも従属しないでいる状態を自己本位主義と名づけたうえは、集団本位主義という言葉が、その反対の状態をあらわすのに適切であるといえよう。それゆえ、この強い集団本位的自殺とよぶことにする。」(デュルケム『自殺論』宮島喬訳、中公文庫、p.266)
2. 自己本位的自殺
「ところで、社会の統合が弱まると、それに応じて、個人も社会生活から引き離されざるをえないし、個人に特有の目的がもっぱら共同の目的にたいして優越せざるをえなくなり、要するに、個人の個性が集合体の個性以上のものとならざるをえない。個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心にもとづく行為準則以外の準則を認めなくなる。そこで、社会的自我にさからい、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるようなこの状態を、自己本位主義とよんでよければ、常軌を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプの自殺は自己本位的とよぶことができよう。」(前掲『自殺論』、p.248)
3. アノミー的自殺
奥井智之『社会学』での説明
「道徳的秩序の崩壊によって、人々の欲求が無規制状態に陥ることを前提としている。」:アノミー
そのような状況のなかで不満や焦燥や幻滅を感じた人々が、自殺への志向性をもつ…」
アノミー
『社会分業論』:「社会の分化した諸機能がうまく統合されず、対立や葛藤を生じている状態」(宮島喬「アノミー」『新社会学辞典』)。
『自殺論』では…(宮島喬「アノミー」『新社会学辞典』)
「欲求の無規制およびそれによる異常肥大化」
「近代社会における自殺の増大の社会的原因が探られ、社会規範の変動のもたらす社会心理的帰結としての欲求の無限化とそれの引き起こす不満、焦燥、幻滅などが注目された。」
これが顕著にみられる社会生活の領域
1. 産業界
欲求を過度に刺激し肥大させる市場経済の拡大、物質的幸福を神格化するような新たな道徳の出現などが、アノミーの背景として指摘された。
2. 家族
離婚が容認され、夫婦の関係がより自由で、不安定となっている状況のもとでの性愛欲求の無規制の傾向も、アノミーの一様相とされた。
近代社会が個人の欲求のたんなる解放のみならず、異常肥大化をも引き起こすさまざまな経済的・社会的な機制をもっていて、それがかえって個人に苦痛、緊張をもたらすことを指摘した点に、このアノミーの意義がある。
「自己本位的自殺」をめぐって
〈分業社会における人間に、その社会的結びつきを絶たせるものは何か〉
キリスト教の宗派の違いによって自殺率が異なる、という当時既知の事実があった。
プロテスタントのあいだで自殺率が高いのは、その宗教が個人主義に基づいているからである。
カトリックは高度に共同体のなかへ統合されている。
宗教は自殺を促進もし、抑制もする。しかし、宗教は共同体社会を形成するときにのみ予防的に作用し、人間を自己破壊衝動から守ることができる。教義は副次的。
「社会的事実」の発見:「個人の外にあって強制力をそなえ、その強制力のゆえに個人に迫ってくるような行為や思考や感情」
人間は自由意志で多くの行為を実行するが、その際ある強制に従う。
自然法則に従うわけでもなく、自発的で自由意志的であるわけでもない、その行為。
デュルケームは『自殺論』の段階までは、宗教を「もっぱら機械的連帯の段階に即応した社会意識のあり方として、近代社会では衰退を余儀なくされる存在」と見ていた(望月哲也「デュルケム」)。
3.1.7. 集合表象としての宗教
「1894年のドレフュス事件あたりを境に、人格の尊厳という形をとった近代の個人主義に対する評価が大きく変わり、それを国民社会の道徳的統合を確保する一種の宗教的信念体系とみる考え方が彼の中に浮上、「聖なるもの」の表象を中心に宗教概念の再定義を図るとともに、その原型を求めて未開宗教(トーテミズム)の解明に彼は向かった。…」(望月哲也「デュルケム」)
『宗教生活の原初形態』
〇「宗教は社会集団より発現し、社会の反映としての集合表象であり、集団を統合する機能を有する制度である」(『宗教人類学』)
集合表象 représentation collective
représentation:「あらわす」をめぐって
「神話・民話・思想・知識・偏見」
「基本的には、思考・感情・意識の様式/モノとは異なる。一人ひとりの個人的な意識をこえた「客観的」で「現実的」で、しかも「集合的」な「総合体」であるので、あたかもモノであるかのように、個人に外側からの拘束力を及ぼすものである。
「一人の心理」に仮託して人類社会の展開を考えていた従来の方法に対して、集団を集団として、集団的な心のあり方から宗教を説明していく方法を開く。」
聖/俗二分論:宗教の源泉としての「聖なるもの」
「聖なるもの」は俗(日常的なもの)から分離されているもの
集団的沸騰(集合沸騰)(「宗教学Ⅰ」で既出)
宗教的祭儀などの場で、人々が密集しあうことに伴って生じる激しい集団的興奮状態(對馬路人)。
『宗教生活の基本形態』上、pp.473-488
オーストラリア社会の生活には、経済活動の時期と宗教儀礼の時期の互い異なる二局面がある。
人々のあり方については、前者は分散、後者は集合・密集である。
後者において、集合・密集する中で、人々の感情は互いに強く影響しあい、高揚状態に入っていく。
その状態の中で、人々は興奮・熱狂し、日常的な規範を逸脱する諸行為を行う。
このような状態を「集団的沸騰」と呼ぶ。
「…宗教的観念が生まれたのは、このように沸騰した社会的環境においてであり、またこの沸騰そのものからであるように思われる。」
table: オーストラリア社会の生活
経済活動の時期 宗教儀礼の時期
ひとのあり方 分散 集合・密集
集団的沸騰が生じる
對馬路人「集合沸騰」『新社会学辞典』
こうした集団的熱狂、高揚の状態のなかで人々は俗なる日常的現実、俗なる自己を離れて、集団と一体化し、集団(社会)やその理想、すなわち聖なるものの実在感やそれが有している道徳的権威を強烈な印象のもとに体験ないし再確認する。
デュルケームは、こうした集合沸騰の社会統合、社会創造の機能を強調した。
アノミー論(前掲→3. 近代の宗教研究 (2):宗教を社会的なものとみる視点#65239d8206fc7f000041e9fe)
3.2. ウェーバー 脱呪術化としての宗教史
マックス・ウェーバー Max Weber(1864―1920)
Weber, Max
3.2.1. ウェーバーの考える社会科学方法論(玉野和志による整理)
社会学という学問は、たとえ個々の研究者がどのような価値に立脚するとしても(これを「価値関係づけ」という)、誰もが認めざるをえない原因と結果の連鎖を描いたモデルとしての「理念型」を提示することで、それらの価値づけとは無関係に望んだ結果をもたらすと思われる手段として最良の選択肢を客観的に指し示すことができる(これを「価値自由」という)。そのような意味での政策科学として、社会学は自らを確立すべきであるとヴェーバーは考えたのである。」(玉野和志「意味に依拠し、法制度に対置される社会 ヴェーバーの社会学」玉野編『ブリッジブック社会学』信山社、2008年、pp.29-30)
3.2.2. 資本主義と宗教:ウェーバーの問題設定
〇「近代文化は宗教史の産物だった」…経済学的な諸問題から
資本主義経済の成立を考えるには、外的条件の分析が必要である。
資本主義が適切な形で社会のなかに組み込まれていくか否かが、資本主義の存続を決する契機となる。
3.2.3. 『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』
エートス (鈴木秀一「エートス」『新社会学辞典』)
社会学用語としては、M.ヴェーバーによって論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで使われ定着した。
ヴェーバーのいうエートス:
倫理的性格、倫理的雰囲気、心的態度などと訳される。
人間を内面から特定の倫理的価値の実践に向けてつき動かす行為への実践的起動力。
ヴェーバーによる理解
近代市民社会の成立には、形式合理的な法秩序や技術ばかりでなく特定の実践的かつ合理的な生活態度が不可欠だった。
この合理的生活態度の形成にとって最も重要な要因は、宗教的信仰に由来する倫理的義務の観念だった。
プロテスタンティズムの世俗内禁欲のエートス:産業的中産者層によって担われ、市民的資本主義形成の原動力となった。
「資本主義の精神」 (鈴木秀一「資本主義の精神」『新社会学辞典』)
M.ヴェーバーの用語。
倫理的にみて正当な利潤を職業(使命)として合理的に追求しようとする精神的態度。
パーリア資本主義ではなく、近代西洋に固有の合理的で平和的な市民的資本主義のエートスである。
営利心は勤労や質素などの倫理的な実践と断ち切りがたく結びついている。
パーリア資本主義における非合理的な、反倫理的ですらありうる利潤追求とはこの点で明確に区別される。
市民的資本主義にみられるこの職業義務の観念は、「英雄的資本主義」(ヴェーバー)の時代の産業的中産者層を担い手としている。
現代の既成秩序と化した資本主義にはもはや見出されない。
プロテスタンティズムの世俗内禁欲と資本主義や「資本主義の精神」の関係(『宗教史の発見』にもとづく説明)
資本主義の確立について、政治的諸条件のほかにそれを規定してきた要因を考察する。
現れつつある資本主義が必要としているものは、ある内的な力すなわちエートスである。
「人間は本性的に、金を稼ぐこと、より多くの金を稼ぐことを求めず、単に自分の慣れ親しんだ生活ができることを、そしてそれに必要な程度の稼ぎを得ることを望んでいる。資本主義が、人間の労働を強化することによって労働の生産性を向上させはじめた場所ではどこでも、前資本主義的な経済労働に見られる、こうした主要な動機に基づく長期にわたるしぶとい抵抗に遭遇したのである。」
当時のドイツ社会学
理性の進歩は自然法則ではない。
西洋合理性の成立は、人間が理性的存在であるという点から説明されるものではない。
→合理性の外側にあって合理性を条件づけている社会的、人間学的、とりわけ歴史的な要因を追究する。
〇ウェーバーは、宗教史のなかに「個々人の経済的行動を制御する意味のシステム」を想定。(『宗教史の発見』p.248)
他者の行為と関係づけられる行動は、関与する人間すべてが同一の意味を当該の行動に結びつけて考える場合にのみ成功を見る。
繰り返される社会的相互作用は、関与する人間すべてがある意味付与のシステム、つまりある世界像を共有している場合にのみ、首尾よく現実のものとなる。
意味というものはけっして自明のものではない。
重要なのは、そのような世界像がいかなる拘束性を有するかという点である。
世界像に無条件の妥当性が認められた場合にのみ、相互作用が繰り返し成功する可能性が高まる。
プロテスタンディズムにおける宗教書(17世紀イギリスの)における救済予定説(『宗教史の発見』p.249)
神がだれを救済へと選び、だれを選ばないかは、ただ神の無窮の御旨にのみよる。
いかなる信者といえども、この点で完全なる確信にいたることはできない。
したがって信者に残されている道は、動じることなく日常生活において自らの義務を履行し、最善を為し、職業生活によってその成果を示すことのみである。
成果は、神が賦与してくれる最も明瞭な恩恵のしるしとみなせる。
しかし、人間はこうした成果の上にのみ安住することは赦されない。
ただ休みなく職業生活に勤しみ、享楽を断つことのみが救済される機会へと導く。
〇プロテスタンティズムによる世俗内禁欲が資本主義のエートス(「資本主義の精神」)を生み出した。
3.2.4. 宗教体系論:『経済と社会』
『宗教史の発見』pp.253-256、参照
潤曰、ここでウェーバーは、世界の宗教の多様なあり方を、定型化した分類をふまえた展開過程を通じて体系化しようとする。
「宗教は非日常的な力の助けを借りることで、此岸の目的を達成しようとする共同体行動である。」
「非日常的諸力はそれが魂、霊、神々として客体化される前に、まずは事象(呪物)および能力(忘我)のなかに顕現する。」
祭司は…
「祭司は、神々に影響を及ぼすために祭儀を打ち立てる。」
信徒たちが、祭儀が望ましい効果を上げないと気づくようになると、祭司はこれを次のいずれかで説明・解釈する。
(a) 悪しき諸力が別に存在しているから、効果があがらない
(b) 共同体を見舞う不幸は倫理的規範を犯したために神が下した罰である
預言者は…
預言者は上記(b)の解釈をさらに拡張し、救済にいたるための手段として、祭儀のかわりに正しき生活を送ることを要請する。
(1) 模範的預言者:聖人崇拝あるいは神秘的沈思を要請する。
(2) 倫理的預言者:超世俗的な神の掟に対する服従を要請する。
この両者の類型の相違によって、宗教史における異なった発展が現れた。
(1) 模範的預言者:主にインドで登場。
(2) 倫理的預言者:オリエントで登場。人格的でこの世界を超越した創造神という観念が支配的だった。
預言者を信奉する人々は共同体を形成する。
共同体は、それが確立し持続していく場合には、祭司によって指導される。祭司は教義を定式化し、説教ならびに牧会活動を通して一般信徒の生活形成に影響力を及ぼす。
祭司は、信徒がいかなる社会層に帰属しているか、考慮する必要がある。
農民
貴族
官吏
特権を与えられた市民層
特権のない奴隷・プロレタリア
諸宗教の歴史においては、知性を重視する立場がしだいに登場した。
宗教史を規定していくのは、主知主義的立場とそれを担う人々である。
神観念が倫理的になればなるほど、神義論の問題が深刻となる。
「神の力と正義がいかにしてこの世の不完全性と調和しうるのか」
3つの論理的解答
(a) 神は「隠れたる神」である。(神が救済対象を選ぶ理由は認識できない。)
(b) 二元論:この世の不完全性は独自に働く悪の力に起因する。
(c) 輪廻転生:罪あるいは功徳は、そのつど来世で報われる。
救済のあり方
(a) 救済される者の行為の結果として得られる。
(b) 恩恵によって与えられる。
各場合…
救済(a)の場合、特別な生を送ることによって救済が得られる。
(あ)積極的に倫理的に行動する。
(い)神秘主義的に現世から逃避する。
-救済(b)の場合、
(あ)救済は秘蹟として人間にもたらされる。
(い)救済は信仰によって獲得される。
救済宗教としての性質(救済宗教性)は、それが心情倫理へと変容する場合のみ、個々の規範の妥当性を破壊し、日常の生活形成を根本的に変革する。→現存の生活秩序との葛藤
現存の生活秩序は自律したものである。
同時に、生活秩序は自らのうちに、心情倫理にもとづく意識を別の選択肢として確立する。
宗教的倫理・救済宗教性は政治的行為、経済的秩序、性の領域、芸術とのあいだで対抗関係を生んだ。
3.2.5. 呪術からの解放
呪術からの解放:「合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的機構への世界の変容を徹底的に成し遂げると、当然宗教の合理化の一面たる「被造物神格化の拒否」を生起せしめる」(小笠原真「呪術からの解放」『新社会学辞典』での説明)
(世界の)魔法が解けること(野口雅弘)
西洋文化における合理主義の特殊性
合理化過程は呪術的観念を解消し、世界を脱呪術化し、次第に神の存在しない世界へと変えていく。宗教は呪術から教説へと変容していく。そうして未開の世界像が崩壊した後に、二つの傾向が現れてくる。一方は世界を合理的に支配していこうとする傾向であり、他方は「神秘的」体験へと向かう傾向である。しかし次第に展開していく思想によって刻印を受けるのは、宗教のみではない。合理化過程は複数の軌道に沿って進んでいくのである。この過程の独自の法則性は、文化のあらゆる領域に、経済、国家、法律、学問、そして芸術といった領域にまでわたるのである。とくに西洋の文化はそのすべての形態において、まずはギリシア文化において発展した体系的な思考のあり方によって決定的に規定されている。そしてこの思考形態に宗教改革の時代にはまたもうひとつの、特定の目的を志向した体系的な生活のあり方が付け加わった。理論的かつ実践的な合理主義のこうした結合が、現代の文化を古代文化と分つものであり、両者の特性が現代の西洋文化をアジア文化と分つものなのである。…」(マリアンネ・ウェーバー)
(『宗教史の発見』p.259)
「人が望む限りにおいて、原理的には秘密に満ち、予測不可能な諸力というものはまったくはたらいておらず、また存在もしないことをいつでも知りうること、そしてむしろあらゆる事柄は原理的には計算することにって支配しうるということ」についての知識・信仰
→諸霊を支配し、あるいは諸霊に懇願するために、もはや呪術的手段に訴える必要はない(『宗教史の発見』p.262)。
参考文献:→参考文献#68da9a410000000000c52983